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2004.12.28
事件における被害者報道(その2)
先月、事件発生時での被害者に関する報道がきつすぎないか、という趣旨のエントリをあげました。そして、先のエントリでは、佐世保での小6女児殺害事件を取り上げ、その父親が新聞記者であり、彼に対する取材に遠慮は無かったか、もしあったのならば、他の被害者に対しても同様の遠慮はできないのか、明記はしませんでしたが、ダブルスタンダードになっていないのか、という趣旨で意見を述べました。そして、今回、被害者の父親が事件以来始めて記事を書き、発表されました。
(記事はこちらをご参照ください)。
内容については、本文をお読みください。お嬢様をなくされた父親の苦しみを強く感じます。
さて、今回の記事では「記者」という自分と「被害者の父」という自分とで葛藤が見られます。ご自身も取材経験があるだけに、一つの対応によって起こる反応が被害者の遺族(ここでは自分)の心を強く傷つけてしまう、という事がはっきりと吐露されています。そして、手記として発表された中にも”写真と名前を出さないでも記事やニュースとして成り立つのでは”という一文があります。おそらく、これは事件報道における二次被害を実感された中での本音でしょう。
そして、今回は特集として御手洗氏をサポートする形での同僚が書かれた記事も出ています。ここでも、一つの見出しの表現や、加害者側の視点で書かれた記事は結果的に加害者の肩を持ってしまうということに気づかされた、という意見が述べられています。そして、この記事の最後には、被害者の名前や顔写真は無くてもよいのでは、という意見が出ていますが、同時に他の記事では被害者の名前や写真が連発している、ということでやや尻切れトンボのような締めくくりとなっています。
これは、おそらく当事者の立場になって初めて気づいた「取材されること」の苦しみへの実感と、普段の自分たちが行っている取材行為とのギャップが埋まらなかったことの現れでしょう。そして、この記事を通したデスクも結局締めくくれなかったことの表れのようにも思えます。
私は、被害者については基本的に匿名でも良い、と思っています。犯罪被疑者の人権は守る法的根拠はあるのに、同様の配慮が既に被害を受けている人に対してなぜできないのか、とどうしても思ってしまうからです。
犯罪、事件被害者に対して「やさしさ」の視点を基準とした報道がなされるよう、実感された方々には特に、心に刻んでいただきたいです。
2004 12 28 [報道] | 固定リンク
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