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2004.12.11

科学的判断と自分に対する危険

世の中には色々な危険があります。食品についても、従来から知られていたもの、新たにわかったもの、人間の営みの中で新たに加わっていくものもあります。そして、これらの「危険性」を評価するにあたってどこまで許せるか、ということが良く問題になっています。

最近では、BSEに関して食肉をどうやって供給するか、という手段を決めなければならない、という事が問題になっています。
ここで、「取り扱いを間違えると危険性のある食材」として有名なふぐを考えて見ます。
統計はこちらを参照しました。毎年、中毒者し、使者が発生しています。そして、飲食店でも中毒が起きているところを見るとプロだから安心、というわけでもない、という点ではBSE以上の危険性を持っていることがわかります。

現状、食品については、ユーザが求めているのは「これはうまいの?安全なの?」という疑問だと思います。
しかし、これを「科学的」に答えを出すのは相当困難です。味について、たとえば「糖度」、「アミノ酸量」、安全性については「特定毒物の有無」、「微生物量」という話はできますが、では上記疑問にスパッと答えられるか、というと堂々巡りになってしまう部分があると思います。
「多数の人に受け入れられる」という条件をつけても99%なのか、99.9%なのか、という線引きが出来るのか、その根拠は何か、と問われると困ってしまいます。

さらに言えば「科学的」(理系的、と言ってもよいかも)というのは、表示にある情報を読み取って自分で判断(責任)を持つ、ということではないか、とも感じています。で、最初にあるユーザの要望というのは、
「疑問に答えてね。でも、私は責任は取らないから」
ということが多いのではないでしょうか。

無体な、とお思いでしょうが自己判断(自分についてだけでも自分で責任を取る)という面を抜きにして「科学的」ということは普及しないように思います。

で、同じようなことを有機野菜(日本で有機JASの認証を受けて販売されている野菜)に関する日経Bpの特集記事を読んで感じたものです。
この場合、ユーザが欲しいのは「うまくて安心できる野菜」です。その手段の一つとして「有機農法」が存在するわけですが、「有機農法で作った野菜=有機認証を受けた野菜」がイコールユーザの要望に沿ったものという保証はありません。有機だからうまいという保証もないし、危険性が低いという保証もありません。しかし、一つの手がかりとしての意味はあると私は思います。しかし、これが手がかり以上の意味を持って動いているのが現状だと思います。

自分で責任を持って判断していく、というのは実に辛いことです。私も投げ出したくなることはしょっちゅうです。しかし、だからといって放棄していたら、判断力も落ちますし、本当に大事な事が決められなくなってしまう可能性があります。

私が行っている判断が全部正しかったと自信があるわけでもないし、(実際、沢山失敗をしている)、これからも失敗はしていくでしょう。ただ、自分がいくつかのオプションを設定してその中から選択し、決めていくということをしていけば失敗しても選択の過程で危険性の予測がある程度できますので、すぐに次の行動に移れると思っています。

自分の身を守るのは最終的には自分であり、そのためにも世の中の基準がどうなっているのかを知ろうとする、というのが「科学的態度」だと思っています(で、これは経済や法律でも同様かと)


(本エントリは、理系白書の、最近のBSEに関するエントリに関するトラックバックを趣旨として作成しました)

2004 12 11 [科学、学問] | 固定リンク

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