« ニセ科学の根底にあるもの | トップページ | 片付け進まず »

2007.04.24

理科と科学の違い

前回のエントリで、最後に書ききれなかった部分です。poohさんからいただいたトラックバックで疑問に思われている点ですが、私はこう思っています。

事実に向き合う、というのは、理系の学生が最初に叩き込まれる考え方です。「データの見方」ですね。「こうあって欲しい」という形で実験をするわけですが、実際に出てくるデータは違う。しかし、このデータを素直に見なさい、というのが科学における学生の基本教育です。

しかし、いわゆる「理科」の教育は、これが抜けていると思っています。教科書は結果は教えても、どうしてそういう知見を得ているのか、というプロセスを教えている暇がありません。従って、いわゆる「文系」の人は、「科学知識」はあっても、「科学的思考」は習っていないではないでしょうか。そのため、自分に不都合な事実が突きつけられるとある意味パニックになってしまうケースもあるように思えます。


もちろん、すべての人がそうなるわけではありません。「科学的思考」は、別にscienceの世界だけのものではなく、通常の合理的な思考をしていれば、日常生活でも自然に身に付くものでもあります。ただ、これが意識して訓練された(仮説を立てる、データを見る、説を補強ないしは作り直す)、ものと、なんとなく行っているものでは基礎部分に違いが生じてくるでしょう。そこにたとえば「水伝」のような形でニセモノが入り込んでしまうこともあるように感じています。

これらを子供の教育、としてみた場合技術的にかなり難しいものであると感じています。科学的態度で推し進めると、ある意味「あきらめ」を教えていくことになりかねません。特に「事実がそうだから」を強くしすぎると、願望というドライブが消えてしまいます。かといって、「望めばなんでもかなう」というのはあまりにも無責任です。ここをうまくコントロールするのが教育だと思いますし、「事実そうなんだけどこうすれば実現する」という突破口を開いてきたのも人間の歴史なわけです。

科学が示した事実に「あきらめ」を抱いてしまうほど、逆に「でも大丈夫」とささやくニセ科学に付け入られる可能性も出てきてしまうのではないでしょうか(このあたりが小飼 弾氏がいう「代案を示せ」ということだと思っています)。

今の世の中において、科学は池の中の鯨のようになってしまっていると思います。すなわち、自信の動きは社会に対して無関係ではないということですね。また、先のエントリでも書きましたが、スポンサーが求めているのは結果ですからこれに対する説明責任もあるわけです。

Noと声を出すのは大事ですが、「願えばかなう」という素朴な願望に対抗していくのは生易しいことではないという前提で声を出さないと相手の心に届かない、というのが今見られている現象ではないでしょうか。


2007 04 24 [科学、学問] | 固定リンク

トラックバック

この記事のトラックバックURL:

この記事へのトラックバック一覧です: 理科と科学の違い:

» これまで努力してきたことが虚しくなる!?知らないほうがいいかもしれない禁断の方法とは?【50部限定】 from アフェリエイトで人気の商品を紹介しています
■■FX究極の成功術■■これまで努力してきたことが虚しくなる!?知らないほうがいいかもしれない禁断の方法とは?【50部限定】価格:¥9,800発送時期:即時【商品詳細】FX最終秘密兵器!設定5分。あとは放っておくだけで毎日24時間稼ぎまくれる!... 続きを読む

受信: May 12, 2007, 3:04:29 PM

コメント

「嫌いなもの」を「嫌っている根拠」に、合理的なものがある、と思いたいのでしょうね。・自分はニセ科学が嫌い ・ゲーム脳はニセ科学だ・水伝を好きな人間は駄目人間だ、という感じのロジック、と言うか。

ニセ科学の悪影響とかを言うなら、実証的研究によって明らかにするしか、無いんですよね。そこはちゃんと、理解すべきだと思います。

http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_d503.html#comment-18692977

投稿者: 比ヤング (Apr 27, 2007, 9:42:19 AM)