« skypeでテレビ電話 | トップページ | メディアは信頼するものではない »

2007.05.09

石を投げつける相手を探して

色々な事件が起き、これらがマスコミによって報道されていますが、近年どうも報道のスタンスが「事実を伝える」ではなく、欲求不満をぶつけるような感じになっているように思えます。いわゆる「ヒステリック」なメディアスクラムと言われる現象ですね。その結果、事故を今後に生かすようなことはあまり無いようです。NHKの特集的な報道番組以外は特にそのように感じています。

で、民放で見られるこのような報道を見ていると、どうも「見ている私を不安にさせたあんたが悪い」というようにも思える感情的な「ニュースショー」のようにも感じてしまいます。みんなが石を持っていて投げつける準備をしていますが、それが自分に向けられるのを恐れている、しかし誰かにぶつけている間は自分には来ない、というように。

そう、まるで「いじめ」の現場のようですね。

さらに、こういう指摘もありました。日経の「経営者倶楽部」というサイトがあるのですが、ここに「公」と「私」と「ジェットコースター」というコラムが掲載されています。ここで、「すべて世の中の仕組みや物には人間の管理が行き届いているものだという感覚がベースになるのではないか」という危惧が述べられています。

確かに、世の中にはマニュアルが整備されたものが多くあり、それに沿っていくことが正しいこと、外れていることを糾弾する向きがあります。「賞味期限切れ」もそのひとつの現れでしょう。もちろん、実際に危険性のあるものを使うことは良くないのですが、「目や味などで確認して使っている」というのは法令にも違反してはいない行為です。以前USJで期限切れの冷凍食品を使って、という事件もありましたがこれも同様ですね。

基準はひとつの物差しであり、軽視してはいけないのですが個々の事象においてすべて当てはまるものではありません。法律というのもその典型でしょう。何かあったときは、その都度当てはめてみて判断する、その判断する訓練を受けている人が「プロ」であり、その見立てを信用することで社会が成り立っている面があります。もちろん、盲信するわけではなく、他者の目による「監査」というのも必要なのですが、杓子定規に当てはめられるものではないし、そういうことを想定したものでもない、というのが本来の「物差し」の使い方なのでしょう。しかし、自らの判断を放棄し、表面に見える数値だけを当てにする、というのはどこかで足をすくわれてしまうような気がしてなりません。

わからない状況ですべて自己責任、という荒々しさから逃れるために社会が出来てきて、文明になっているともいえるのですが、だからといって何も考えなくて良い、というのも何か違うのでは、と感じています。

2007 05 09 [日記・コラム・つぶやき] | 固定リンク

トラックバック

この記事のトラックバックURL:

この記事へのトラックバック一覧です: 石を投げつける相手を探して:

コメント